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―― 十を数えた子供が泣き喚く。








泣いたら酷くなる。
そんな事も分からなくなるくらい、頭が朦朧としていた。


その日は朝から体がだるく、いつも以上に頭に入らない授業を終えて帰途に着く頃には、地面が柔らかいものであるかのように足元が覚束なかった。
おかしいとは思えど、訴える相手もないまま家に帰り、父親の問いに訳も分からず生返事をしたらそれが怒りに触れたのか殴られた。
普段なら、黙っていればそれで終わりだったはずなのだが――衝撃で脳が揺れるような気持ち悪さと、単純な痛みにうっかり漏らした声に涙腺が反応したらしい。

「あ、ぐ」

頬を伝うのが涙だと認識した時には、二発目の拳が飛んで来ていた。
壁に背が当たる。
髪を掴み上げられ、泣くなと至近距離で怒鳴られて頭が割れるように痛んだ。

「あ、うう、ぅ」

意識は何処か遠く、涙も声も止まらない。
苛立った顔の父親に平手で殴られる。
歯に当たって口の端が切れ、広がる血の味に吐き気まで感じた。
気持ちが悪い、痛い、頭が痛い、殴られた場所が痛い、気持ちが悪い、熱い、痛い、世界が揺れる、関節が痛い、吐き気がする、気持ち悪い、痛い、痛い痛い。

「ひっ、ぐ、あ、あぁ」

まともな思考にはならず、一度漏れた声と涙は益々量を増した。
怒鳴られながら襟を掴み上げられるのが苦しくて、父親の手を必死で叩いて振りほどく。
怒りに歪んだ顔が更に赤くなるのが見えたが、それが意味する所までは考えられず、ただ壁に背を預けてずるずる座り込んだ。

痛い、熱い、苦しい――喘ぐ視界に影が落ちる。


見上げて、息を飲む間と判断力があったかどうか。


頭に走る衝撃。
瓶の割れる音。
左の眉上から頬にかけてをバラバラに引っ掻いて行く鋭い何か。
悲鳴すらも上げられなかった。

額から伝う生温いものが、今度は血だと理解する前に腹に蹴りが叩き込まれる。
思わず身を折って床に丸まった。
床を這うように動かした視界に割れた酒瓶が映り、あれで殴られたのだと分かる。
脇腹にもう一発。

「う、っふ、ううう……!」

顔の半面に走る鋭い痛みと身体中の鈍い痛みに更に頭が混乱する。
泣き声を出しているのは最早自分では無い気すらした。
何処かは冷め切っているのに、まともに状況が把握できない。
黙れ、と上から頭を踏み付けられる。
畳に押し付けられる息苦しさに、だるくて殆ど動かない手足を振るが、散らばる破片のせいで腕に赤い線が走っただけだった。

父親が絶えず怒鳴っているのは分かる。何を言っているかは分からない。
たまに来る痛みと衝撃が蹴られているせいだとは分かる。既に回数は分からない。

一際強い蹴りに体はあっさり転がり、壁に打ち付けられた。
尚も怒鳴る父親の足だけが視界に入り、それが立てる荒々しい音が段々遠くなるのを聞く。

「……う」

乱暴に扉を閉める音に更に頭が痛んだ。
世界は揺れていて、怒鳴り声がまだ響いているように感じた。

「う、うう゛、ああぁああ゛」

流れる涙が左側の傷口に染みる。

「あぁああ、あぁ……!」

遠くなっていく意識に逆らうように、肺は泣き声を絞り出していた。
覚えているのは、そこまで。









――結局、深夜に帰ってきた父親が、同じ体勢で倒れている自分に流石に異状を感じ慌てて知り合いの医者を呼んだらしい。
邪魔っけな子供でも殺してしまうのはまずい、という事だろう。
つくづく半端な事だ。
次に目覚めた時は知らない家だった。
高熱で三日程寝込んだと聞いたが、全く覚えていない。

久々に鏡を覗き込んだ顔に走る細かい傷跡に、夢では無かったのだと確認したくらいだ。
咄嗟に目を閉じたお陰か、眼球に傷がついていなかったのがまだ幸いか。
薄い痕を指先でなぞり、深い溜め息を吐く。

暴れても敵わず、逃げる事も叶わず、泣き喚いても助けはない。
どうせこの行き場のない欝憤を晴らす先は、自分とて同じ、自分より弱い者。
同じことをして同じことをされて、何れは今回のように倒れてそれで終わり。
打ち捨てられて顧みる者もなく死んで行く。


全く下らない。


口の端を吊り上げる。
四方を塞ぐ理不尽な暴力から逃れる術は無いのだと、諦念に染まった顔がそこにあった。








――解放の音が聞こえるまで、後数年。



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砂川 義春
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